応援アワード2022 世界中の応援が繋いだ27万人の家族
エピソード要約
震災後ひとつの仮設住宅のお母さんたちが、やったこともなければ、資金もない、条件も何も揃っていない状態から、応援の力で世界中の人たちと27万人の家族をつくった物語。
エピソード内容
東日本大震災が繋いだ奇跡の物語です。
すべてを失い、避難所生活ではじめて体験した食事。
お弁当を少しでも美味しく食べてほしいという人の気持ちの温かさ。
支援とは、その人を物・心など必要としているものを応援することでもあると思いました。
避難所ではじまった出会いは仮設住宅へと移っても続いていきました。
仮設住宅での炊き出し。食材の応援からはじまり、着る物の応援。
心の応援、音楽の応援、体を癒やす応援。
気づいたことは、助け合うという心で応援しあうこと。助けてほしいと声にし、手を挙げること。
いろいろな気持ちを抱えながら、仮設住宅での交流がはじまりました。
気分を紛らわせる、没頭できる、楽しめる、ものづくりもその一つでした。
そんな中で出会ったひとつのぬいぐるみ作成がこれほどまでの世界を変えるとは思いもしませんでした。
仮設住宅のある家庭に届いた靴下で作られた人形。それを持って、一人の女性が集会所にやってくる。「これなら作れるんんじゃない?」「どうやってつくるのか作り方を教えてほしい。」「自力で教えに来てほしい。」そんな勝手なお願いが現実になり、作り方を教えてもらうことになりました。つくってみると意外と楽しい。
久しぶりの手仕事にわいわいがやがやと、話しながらつくる靴下の人形、私のが可愛い。いやこっちの方がかわいい。そんな穏やかな雰囲気の中、人形制作がはじまりました。
はじまりは?と聞くと暇だったから、とお母さんたちは照れくさそうにいいます。でも本当は応援して貰った人たちに何かお礼をしたいって気持ちを持っています。あとは余計なことを考えずに何かに没頭したい。
そんな隠れた気持ちを持ちながら毎日人形をつくっていきます。お母さんたちは、お互いに助け合い、協力しながら靴下がなくなったら買いにいく、「綿がなくなったよ〜」と言われれば買いにいく。仮設住宅の集会所を訪れる方々の手に渡っていく人形。
ちょうどそのころ、東北を応援するということで「NEVER FORGET TOHOKU」俳優さんたちが主催されている銀座の画廊で東松島の写真展をさせて頂いていました。物産展などもやってみないかと声をかけて頂き、東松島の復興に向けて動き出している企業や各地区の仮設住宅でものづくりをしている方々のものを持って、銀座で販売することがはじまりました。
毎月土日には、少しでも東松島の商品を知ってもらえるようにと、のべ100名ほどの応援者(ボランティアのみなさん)が駆けつけてくれました。初めての物産展では、その応援者のみなさんが応援になるならと買ってくれました。でも、その次の回は、その方々が誰かにプレゼントしようと完売になり、さらに3回目の時には、みんな目を合わせながらどうやって完売にするかって考える、応援マインド満載の人たちばかりです。でもこのままでは応援の気持ちが負担になってしまうかもしれない。そう感じている時に誕生したのは靴下の人形です。お母さんたちは当然のように「自分たちのものも売ってきて〜」って笑っています。ここでひとつの勝負に出ました。持っては行くけど売らない。見せびらかして、ほしい人は東松島の仮設住宅まで行って下さい。そんな風にアナウンスして貰いました。応援マインドのある方々にとっては凄く興味を持ってくれる方もいて、「いくらでもいいから売ってよ!」って人まで出てくれましたが売りませんでした。次の月にも同じように、すると3ヶ月目には東松島まで来てくれた人が現れました。なかなか手に入らないものを現地まで行って手に入れた喜びは大きく、SNSで活動している人たちにとっては自慢したいことにもなり、どんどん投稿してくれます。これもまさしく応援になりました。本気でほしくて本気で嬉しくて投稿しているメッセージには力が宿っています。だからそれを見た人はやっぱりどうしてもほしくなる。そして東松島へと足を運んでくれるようになりました。もともと小野駅前仮設住宅にはボランティアしてる方が沢山訪れており、同じように投稿してくれます。また東北に来るときには連れてきてくれます。そうしているうちに「これって販売してるんじゃなくって里親募集だよね」。で東北に来たら里帰りしてるって目的が出来るって声があがりはじめ販売ではなく里親募集するとこに決まりました。それでは名前も決めなきゃってことで仮設住宅のお母さん武田は考えます。
小野駅前仮設住宅だから「おのちゃん?」かわいいのは好きじゃないから「おのくん」だ5秒で決まりました。当時ボランティア活動で来られていたNHKのアナウンサーにお小野文惠さんが集会所に訪れた時にお母さんたちの口癖でもある「めんどくしぇ」って言葉を聞いて命名してくれていました。これって「めんどくしぇ人形」だねってなのでおのくんの正式名称は「めんどくしぇ おのくん」に決まりました。当初は名前にも反対意見が多かったんです「めんどくしぇ」って言葉になぜそんなネガティブな言葉を使うのかとでも実際にお母さんたちに会って言っているところを聞いてみて下さい。きっと嫌な気持ちにはならないから。それどころか、かわいくも感じられるはずです。なぜかっていうと応援してくれてる人たちに、わざわざ東松島まで足を運んでくれてる人たちへの照れ隠しで言ってようなもんです。気持ちがあってあれこれして恩返ししたいって気持ちが溢れでちゃってるんです。
笑顔だったり照れてる顔でめんどくしぇ!って言ってる姿ってみなさん手伝いたくなるようで、「だったら自分でやるよ!」なんて言って自分でコーヒー入れたりして、一日中いる人達まで出てきます。「もうずっといるからめんどくしぇな〜」気使わなきゃないって言ってあれこれ手伝わせちゃったりして交流がうまれます。応援したい人たちが来ているのでみんな喜んで手伝ってくれます。応援がここでも生まれていきます。一日中話をしているもんだから雑談からやってみたいことが出てきます。でもそんな事出来るはずないか!?って言いながらやってみたいな〜って日々が続きます。だったらやってみようよ。でもやったことないよ。
やれる人いるかな?いないけどやってみよう!って決まると、不思議と人って集まってくるもんです。すると次に出てくるのが予算をどうするのか?って問題。でもやってみたいなら集めてみようよ。とかお金をかけずにする方法はないかって考えはじめます。来る人来る人に話していきます。すると出来る人が現れる。予算を集めて来てくれる人が出てくる。予算を集める仕組みを考えてみる。すると条件も経験もなくても意外と出来るんです。「おのくん」は震災で誕生しました。事業やお金の為にはじめたことじゃない。やるしかないからやってみる。そこに共感してくれる人たちとやってみる。おのくんの里親さんはどんどん広がっていきます。里親になった一人ひとりが自分の町に帰ってお母さんたちの気持ちを伝えてくれます。SNSにどんどん投稿してくれます。毎日のランチの際に一緒に写真を撮って投稿してくれる。旅に出ればおのくんも連れて行ってくれます。それをSNSに投稿してくれる。ガラケーだったお母さんたちもスマホに変えて見る専になっておのくんをチェックします。毎日が里親さんたちに応援して貰ってる気持ちを実感出来る。心の応援です。そしてそれを見た人が東松島まで足を運んでくれるようになる。どんどん協力者が増えていきます。SNSでも話題になってくれました。本当に感謝しかないです。東松島には、震災で飲み込まれた松島基地があり、当日に東松島のシンボルでもあるブルーインパルスだけは九州に行っており唯一無事でした。そして無事松島に戻したいという基地の当時の団司令の意向で仮設住宅を回りたいということでご一緒させて頂くことがあり交流させて貰っていたこともあり、ブルーインパルスが題材になったテレビドラマにも出演させて貰うことが出来ました。応援されて応援してって関係が生んでくれた奇跡です。放映された瞬間の仮設住宅の電話は鳴り止みませんでした。里親さんという家族も増えてきて、みんなが集まれる機会があるといいねってことで、誕生祭とかあったらいいね。でも何を目玉にする?きぐるみでもいたらみんな楽しいかもってことで、きぐるみをつくるプロジェクトがスタート。いろいろ調べて作れる会社を探し出して見積もりを出し、おのくんのタンブラーを1500個売れば作れるってことでスタート。どうせならボランティアに来る人達にも知ってもらおうってことでボランティアバスツアーにセットにしました。そして当時はボランティアに来て瓦礫撤去をしてお昼にはお弁当を食べて夕方ギリギリまで活動してそのまま帰るって人たちも多く東松島に来ているのに町のことは見ていないってことでこのツアーではお昼の時間を多くとってお店の方々にも協力をお願いしておのくんタンブラーを持っていたらちょっとサービスして貰えるような仕組みをつくりました。事前に協力店のことをお知らせてして当日食べにいく。そこで交流が生まれてこんな人達が自分たちの町に応援に駆けつけてくれてるんだって知って貰うことをやってみました。実際には1800個のタンブラーが売れてきぐるみとは別でブルーインパルスのヘルメットとジャンバーもお願いすることが出来ました。応援のちからで誕生したでっかいおのくんは誕生祭の目玉となっておのくんの誕生祭の企画にも勢いが出て来ます。きぐるみがいるってことは何をする?ってことで東松島の子どもたいと一緒にダンスしよってことでおのくんソングを応援でつくって貰いました。現地のキッズダンサーたちには曲に合わせてダンスを考えて貰いました。お祭りを盛り上げる為に沢山のアーティストさんたちにも声をかけて来て貰えるようにお願いしてみました。お金は当然ありません。だからみんな応援で駆けつけてくれる人。沢山の人たちが応援に駆けつけてくれることになりました。お祭りの中身は決まってきました。全国から集まるよ!って声が上がっています。わざわざ東松島まで来てくれるなら地元のものでも食べてほしいってことで、地元の方々にも応援で出店して貰うことにしました。会場は市民センターを借ります。当初は講堂だけをお借りするつもりでしたが飲食も駐車場でやりたいと聞いたところ他の人がくるかもしれないから全館貸切にしてくれないと使えないってことで全館貸切にすることに決めました。するといくつも部屋があまるんです。勿体ないって話していると応援で出店したいって人が次から次へと集まってきました。お祭りの準備だってお母さんたちだけじゃ無理です。だから前もってお手伝いに来てくれる人たちがいました。お祭りの規模は考えているよりも大きくなり会場には沢山の人たちで溢れかえっていました。応援の力って凄いんだね。お祭りなんで参加するところで自分たちが出来ることだなんて思わなかった。でも応援の力で出来ちゃったんです。応援されたから応援に駆けつける。応援するために応援して貰う。どんどん輪が広がっていきます。隣近所4〜5人だった付き合いが今では27万人を超えました。
信じられないとような繋がりが生まれました。俳優さんやアーティストさんに声優さん。海外にだって里親会が出来ました。全国に応援の恩返しにだって行きました。台湾のインドネシアにハワイにだって応援の応援に行きました。イオンモールさんには全店で応援して貰いました。アニメでは名探偵コナンにのエンディングにも応援の力で登場しました。コロナになって靴下が手に入らなくなったら靴下メーカーのレンフロジャパンさんが多大なる応援で残糸を使って靴下をつくってくれました。そこからなりきりおのくんっていろいろなキャラクターになるおのくんが誕生しました。奇跡みたいなコラボレーションが応援の為に誕生しています。震災で生まれたキャラクターだからこそ出来ること。それは何もなくなったとしても条件が整っていなくても出来る人がいなくてもやってみるってこと。
出来るってことを証明し続けること。こうしたことを伝える続けていくことで、
この先起こる災害時に、少しでも立ち上がる人の気持ちを応援出来ればいいと考えています。震災から11年おのくん誕生から10年こうした応援の連鎖で今があります。これから先100年続けていけるように、やりたいことは全部やってみる。
合言葉は「挑戦と応援を文化にする」こんなことを掲げていたら「応援を文化にする」応援アワード2022に出会いました。これも何かの縁だと感じたのでエントリーすることにさせて頂きました。応援が日常になる未来に向かって活動し続けます。これからの応援アワードさんとも何かご一緒にムーブメントを巻き起こしたいです。応援よろしくお願い致します。